祖父母
実家に帰省して荷物をほどいてたら玄関が騒がしくなり、襖を開けたら知らないおばさんに掴みかかられ柔道投げされた!天井を見てた私「え?は??」→皆でおばさんの話を聞いたら…
675 :名無しさん@おーぷん 2020/01/06(月) 16:29:53 ID:Orf
年末年始は仕事で、今日から数日休みなので帰省してる。
実家に着いて荷物を整理してたら玄関が騒がしくなり、何事かと襖を開けたら飛び込んできた知らないおばさんに掴みかかられ、訳がわからないうちに天井を見てた。
柔道でぶん投げられたらしい。
分厚い脂肪がクッションになったのか私はノーダメージ。
むしろ私は視界が襖→廊下→知らないおばさん→天井とくるくる移り変わって処理が追いつかない方にパニック。「は?」しか言えないロボットみたいになってた。
デブな私を投げた細身のおばさんがバランス崩してるすきに旦那が間に入り、同日に帰省してた妹の彼氏が駆けつけておばさんをつかまえてくれた。
私の修羅場はここまで。
後から駆けつけた母に宥められ、リビングで全員テーブルについた。
おばさんもパニックになっているようで、まくし立てているんだけど文章に必要な要素がたびたび欠落してよくわからない。
母がお茶を淹れながらおばさんが父(昨年没)の方の親戚だと教えてくれた。
おばさんは私達がおばさんのことを知らないのに動揺。
なんとか話してくれたことによれば、全ての元凶は祖父母だった。
実家に着いて荷物を整理してたら玄関が騒がしくなり、何事かと襖を開けたら飛び込んできた知らないおばさんに掴みかかられ、訳がわからないうちに天井を見てた。
柔道でぶん投げられたらしい。
分厚い脂肪がクッションになったのか私はノーダメージ。
むしろ私は視界が襖→廊下→知らないおばさん→天井とくるくる移り変わって処理が追いつかない方にパニック。「は?」しか言えないロボットみたいになってた。
デブな私を投げた細身のおばさんがバランス崩してるすきに旦那が間に入り、同日に帰省してた妹の彼氏が駆けつけておばさんをつかまえてくれた。
私の修羅場はここまで。
後から駆けつけた母に宥められ、リビングで全員テーブルについた。
おばさんもパニックになっているようで、まくし立てているんだけど文章に必要な要素がたびたび欠落してよくわからない。
母がお茶を淹れながらおばさんが父(昨年没)の方の親戚だと教えてくれた。
おばさんは私達がおばさんのことを知らないのに動揺。
なんとか話してくれたことによれば、全ての元凶は祖父母だった。
学生の時、彼を庇って顔に火傷を負った私。彼「一生かけて償う」と結婚することに→ところが、彼の父方祖父母宅に挨拶に行ったら、彼祖母「あなたは泥棒だからね」←え?なぜ?
498 :名無しさん@おーぷん 2016/01/21(木) 13:19:20 ID:drp
お正月、彼氏の実家に挨拶に行った時のことでモヤモヤしています
よろしくお願いします
前提
彼氏は両親と弟を中学の頃失っており、母方の実家で育った後18で就職し、その際に父方の祖父母と養子縁組しています
彼氏と祖父母は戸籍上親子ですが距離は近くありません
私も彼氏も学生の頃、お付き合いをする前、私が彼氏をかばって大怪我を負いました
怪我を負わせた相手に責任能力がないことで、花火を押し当てられた左目の下からこめかみ、左腕に大きく火傷の痕が残りました
5回の手術で皮膚が引っ張られて目が釣り上がる状態は改善されましたが、肌が泡立ったような見た目の治療(火傷痕にきくジェルシート?)が自費になるらしくできていません
彼氏が悪いわけではないのですが、彼氏は責任を感じて一生かけて償うと言っています
前提が長くなりました
このような経緯で私は傷物の地雷物件です
彼氏はそんな私を一生面倒を見てくれると言ってくれて、お付き合いをはじめ、この度結婚の話が出ました
私の両親はこの傷が原因で私が苦労をしたことを知っているので、中堅の企業に就職し、懸命に働く彼氏との結婚を歓迎してくれました
そこで彼氏の実家に挨拶に行きました
彼氏も祖父母とはそこまで親しくないので、私が見ているだけでも余所余所しい感じがありました
結婚後は彼氏が私の姓を名乗ると説明し、俺の代わりに傷を負ったくれたことを一生かけて返していきたいと祖父母に頭を下げました
私も挨拶を済ませ頭を下げましたが、彼氏の祖母から「あなたは非常識なことをしてるのよ」と言われました
挨拶の仕方が悪いのかと思っていると、女は夫に尽くすべきで、一生かけて尽くさなければならないのはあなたなのよと言われました
その後祖父母と同居しているという彼氏の従兄弟とその奥さんと子供(4歳)を同席させ、私と彼氏は従兄弟たちに頭を下げさせられました
挨拶が終わった後、居間で横になってゴロゴロする従兄弟たちに変わり、私は子守を言い渡され、子供が遊び疲れると食事の手伝いをさせられ、
私が子供に食事をとらせ、私は一番最後の食事で、終わったら片付けは一人でやらされました
彼氏は手伝おうとすると、祖父母から何もするな、座ってなさいと棒で叩かれ、手出ししないことを強要されていましたので、私がじっとしておいてとお願いしました
その日は泊まっていく予定でしたが、彼氏がタクシーを呼んでくれて、ネカフェかどこかで過ごそうと夕飯の支度が始まる前に連れ出してくれました
実家をあとにするとき、祖父母から私だけ呼び出され、「あなたはドロボウだからね、それをよく覚えておいて」と言われました
この一連の出来事が忘れられません
彼氏は特に祖父母と関係があるわけではなく、実家に帰るのも両親の墓参りと法事の時だけです
彼氏にとっても殆ど他人と変わらない人たちのこと、この気持ちを話したとしても彼氏の罪悪感を引き立てるだけでしょう
実家と絶縁させてしまえば、彼氏はお仏壇に手を合わせることもできなくなってしまいます
それを理解したうえでモヤモヤしてしまいます
こういった気持ちは時間がたてば消えるものなんでしょうか?
吐き出せるところがなくて溜め込んでいたら、時間が経てば経つほどモヤモヤが黒く重くなってきた気がして参っています
よろしくお願いします
前提
彼氏は両親と弟を中学の頃失っており、母方の実家で育った後18で就職し、その際に父方の祖父母と養子縁組しています
彼氏と祖父母は戸籍上親子ですが距離は近くありません
私も彼氏も学生の頃、お付き合いをする前、私が彼氏をかばって大怪我を負いました
怪我を負わせた相手に責任能力がないことで、花火を押し当てられた左目の下からこめかみ、左腕に大きく火傷の痕が残りました
5回の手術で皮膚が引っ張られて目が釣り上がる状態は改善されましたが、肌が泡立ったような見た目の治療(火傷痕にきくジェルシート?)が自費になるらしくできていません
彼氏が悪いわけではないのですが、彼氏は責任を感じて一生かけて償うと言っています
前提が長くなりました
このような経緯で私は傷物の地雷物件です
彼氏はそんな私を一生面倒を見てくれると言ってくれて、お付き合いをはじめ、この度結婚の話が出ました
私の両親はこの傷が原因で私が苦労をしたことを知っているので、中堅の企業に就職し、懸命に働く彼氏との結婚を歓迎してくれました
そこで彼氏の実家に挨拶に行きました
彼氏も祖父母とはそこまで親しくないので、私が見ているだけでも余所余所しい感じがありました
結婚後は彼氏が私の姓を名乗ると説明し、俺の代わりに傷を負ったくれたことを一生かけて返していきたいと祖父母に頭を下げました
私も挨拶を済ませ頭を下げましたが、彼氏の祖母から「あなたは非常識なことをしてるのよ」と言われました
挨拶の仕方が悪いのかと思っていると、女は夫に尽くすべきで、一生かけて尽くさなければならないのはあなたなのよと言われました
その後祖父母と同居しているという彼氏の従兄弟とその奥さんと子供(4歳)を同席させ、私と彼氏は従兄弟たちに頭を下げさせられました
挨拶が終わった後、居間で横になってゴロゴロする従兄弟たちに変わり、私は子守を言い渡され、子供が遊び疲れると食事の手伝いをさせられ、
私が子供に食事をとらせ、私は一番最後の食事で、終わったら片付けは一人でやらされました
彼氏は手伝おうとすると、祖父母から何もするな、座ってなさいと棒で叩かれ、手出ししないことを強要されていましたので、私がじっとしておいてとお願いしました
その日は泊まっていく予定でしたが、彼氏がタクシーを呼んでくれて、ネカフェかどこかで過ごそうと夕飯の支度が始まる前に連れ出してくれました
実家をあとにするとき、祖父母から私だけ呼び出され、「あなたはドロボウだからね、それをよく覚えておいて」と言われました
この一連の出来事が忘れられません
彼氏は特に祖父母と関係があるわけではなく、実家に帰るのも両親の墓参りと法事の時だけです
彼氏にとっても殆ど他人と変わらない人たちのこと、この気持ちを話したとしても彼氏の罪悪感を引き立てるだけでしょう
実家と絶縁させてしまえば、彼氏はお仏壇に手を合わせることもできなくなってしまいます
それを理解したうえでモヤモヤしてしまいます
こういった気持ちは時間がたてば消えるものなんでしょうか?
吐き出せるところがなくて溜め込んでいたら、時間が経てば経つほどモヤモヤが黒く重くなってきた気がして参っています
中学受験の為に両親の勝手な判断で小3から塾に通わされた。苦痛で仕方が無かったが通わないと夕飯が無く家での監視も酷いので通わざるを得なかった。だけどそんな
604 :名無しさん@HOME 2012/08/11(土) 23:22:45 0
両親が勝手に中学受験の為に小学校三年から塾に通わされた。
苦痛で仕方なかったけど通わないと夕飯は無いし、家での監視もひどいので通わざるを得なかった。
だけどそんなやる気のない状態じゃ当然受かるはずもない。
両親が指定した中学校を四校受けてすべて不合格だった。
それが切っ掛けで両親ともにうつ病?精神病になった。
自分たちの子供がこんなに頭が悪いなんて…と毎日言われた。
父はまだマシで仕事にも行けたけど母が酷かった。
朝から夕方まで寝倒したと思ったらむくっと起きてきてご飯を食べるとまた寝る。
起きてるかと思えば
「一緒にタヒのう」「お母さんの育て方が悪かったんだよね」「生きてる意味ないね」
と首を糸交められたり、包丁を持ったかと思えば壁に突き刺してへらへら笑っていたり。
笑顔で過ごしていると思ったら急に怒り出したり発狂したり。
そんな母が父と喧嘩すると大変だった。
全ては自分の不合格のことで喧嘩していた。
一番ひどい喧嘩は父が母に向かってバーナーでやけどを負わせたこと。
でも負けじと母は父に向かって包丁を投げつけた。
自分は泣くことしかできなかった。
二人とも警察に連れていかれた後、両親共に精神病院に入院した。
自分は祖父母に引き取られて数年。
未だに両親は入院したまま。
自分の血に両親の血が流れているかと思うと本当に怖い。
苦痛で仕方なかったけど通わないと夕飯は無いし、家での監視もひどいので通わざるを得なかった。
だけどそんなやる気のない状態じゃ当然受かるはずもない。
両親が指定した中学校を四校受けてすべて不合格だった。
それが切っ掛けで両親ともにうつ病?精神病になった。
自分たちの子供がこんなに頭が悪いなんて…と毎日言われた。
父はまだマシで仕事にも行けたけど母が酷かった。
朝から夕方まで寝倒したと思ったらむくっと起きてきてご飯を食べるとまた寝る。
起きてるかと思えば
「一緒にタヒのう」「お母さんの育て方が悪かったんだよね」「生きてる意味ないね」
と首を糸交められたり、包丁を持ったかと思えば壁に突き刺してへらへら笑っていたり。
笑顔で過ごしていると思ったら急に怒り出したり発狂したり。
そんな母が父と喧嘩すると大変だった。
全ては自分の不合格のことで喧嘩していた。
一番ひどい喧嘩は父が母に向かってバーナーでやけどを負わせたこと。
でも負けじと母は父に向かって包丁を投げつけた。
自分は泣くことしかできなかった。
二人とも警察に連れていかれた後、両親共に精神病院に入院した。
自分は祖父母に引き取られて数年。
未だに両親は入院したまま。
自分の血に両親の血が流れているかと思うと本当に怖い。
母方祖父母と同居で両親と兄と私の6人家族だったが私が小学校高学年の時に祖父母が離婚し大好きな祖父が出て行った。祖母が倒れ入院し亡くなったが私は祖母が嫌いで…
165 :名無しさん 2014/03/26(水) 17:42:05 ID:3d81ShL2B
157です。出掛けていて遅くなってしまいました。
軽くフェイクありますが、ほとんど実話です。
私の家族は元々母方の祖父母・父・母・兄・私の6人家族でした。
確か小学校1年生前後は母は働いていて幼稚園や学校から帰ってきたら祖父母と過ごしていました。
祖父は植物に詳しくて庭の手入れも良くしていました。私はそんな祖父の事が自慢で好きでした。
小学校のクラスにある植物に虫がついたときも祖父が虫を取るための薬をくれて学校に持って行ったりしてました。
その頃祖母の事をどう思っていたかあまり覚えていません。ただ、「おばあちゃん大好き!」って感じじゃなかったように思います。
そして、小学生高学年のときだったかに1つ目の修羅場がありました。
それは祖父母の離婚です。原因は祖父の浮気と言われました。
それが分かる数ヶ月前からよく祖父母が怒鳴り合う声が聞こえていました。
そういう時私は2階にいて、そんなに深刻な事になってると知らなかったのでうるさいと文句を言ったりしたときもありました。
離婚すると告げられる数日前に祖父が使っていた部屋が空になっているのを見て「ああ離婚するんだなあ」と冷静に思った記憶があります。
そしてある日2階にいるときに呼ばれて下に行くと祖父を除く家族が揃っていて「お爺ちゃんとお婆ちゃん別れたから。いいよね?」と言われました。
その時私は何も言わず2階に戻り、暫くの間泣きました。
今でも「いいよね?って、なんで答えのない質問をしたんだろう。もう答えは出てるじゃないか」とたまに思います。
それから前に増して祖母が嫌いになっていったように思います。
祖母は離婚のショックだとかで体調を崩していきました。私は正直どうでも良かった。
そして中学生の時に入院してある時入院していた病院から救急車で大きい病院に運ばれました。これが2つ目の修羅場です。
ここだけの話、入院してるときは祖母が家にいないためストレスが少なくなり一人で喜んでいました。
運ばれたとき母も付き添っており、母は運ばれたその日から亡くなるまでの2ヶ月間ずっと病院に寝泊りしていました。
父がたまには家に帰ったら?といってもずっと付き添っていました。多分離婚したショックで倒れた自分の親が心配だったんですかね。
週一回病院に見舞いにいってましたが正直祖母よりも母のほうが心配でした。
母は病院の簡易ベッドで過ごす為に顔が凄くむくんだり体調を崩したりしていました。
母が病院で寝泊りしている間、私は父と2人で過ごしました。(兄は大学に行くために離れて暮らしていました)
母がいないので色々と大変でした。肋間神経痛になったり髪がいっぱい抜けたりしました。
そんな状況でもちゃんと朝食や夕食を作り洗濯等をしてくれた父には本当に感謝しています。父が出張の時に面倒を見てくれた親戚の人にも感謝でいっぱいです。
そんな生活にも終わりが来ました。祖母がタヒんだからです。
夜中に父に電話が来て、2人で病院にいきました。真夜中の病院って初めて見るなあなんて頭の隅で考えていました。
それからはどたばたと時間が過ぎていきました。学校側から一週間も忌引きを貰ってそんなに貰えるのかとびっくりしました。(友人にも1週間休んだので色々と心配されました)
祖母は外面はよかったので友人という人がいっぱい来ました。
ほとんど泣きませんでした。泣いたのは祖母が亡くなった時と葬式の時に母に育ててもらったお礼を言えといわれたときだけですね。だって、好きじゃない、嫌いな人がタヒんだから。
初七日とかも終わって落ち着いた頃に思ったのは「ああやっとみんな解放された。」でした。
これでまた母と暮らせると思うと嬉しかったです。
長いと怒られたので切ります。
軽くフェイクありますが、ほとんど実話です。
私の家族は元々母方の祖父母・父・母・兄・私の6人家族でした。
確か小学校1年生前後は母は働いていて幼稚園や学校から帰ってきたら祖父母と過ごしていました。
祖父は植物に詳しくて庭の手入れも良くしていました。私はそんな祖父の事が自慢で好きでした。
小学校のクラスにある植物に虫がついたときも祖父が虫を取るための薬をくれて学校に持って行ったりしてました。
その頃祖母の事をどう思っていたかあまり覚えていません。ただ、「おばあちゃん大好き!」って感じじゃなかったように思います。
そして、小学生高学年のときだったかに1つ目の修羅場がありました。
それは祖父母の離婚です。原因は祖父の浮気と言われました。
それが分かる数ヶ月前からよく祖父母が怒鳴り合う声が聞こえていました。
そういう時私は2階にいて、そんなに深刻な事になってると知らなかったのでうるさいと文句を言ったりしたときもありました。
離婚すると告げられる数日前に祖父が使っていた部屋が空になっているのを見て「ああ離婚するんだなあ」と冷静に思った記憶があります。
そしてある日2階にいるときに呼ばれて下に行くと祖父を除く家族が揃っていて「お爺ちゃんとお婆ちゃん別れたから。いいよね?」と言われました。
その時私は何も言わず2階に戻り、暫くの間泣きました。
今でも「いいよね?って、なんで答えのない質問をしたんだろう。もう答えは出てるじゃないか」とたまに思います。
それから前に増して祖母が嫌いになっていったように思います。
祖母は離婚のショックだとかで体調を崩していきました。私は正直どうでも良かった。
そして中学生の時に入院してある時入院していた病院から救急車で大きい病院に運ばれました。これが2つ目の修羅場です。
ここだけの話、入院してるときは祖母が家にいないためストレスが少なくなり一人で喜んでいました。
運ばれたとき母も付き添っており、母は運ばれたその日から亡くなるまでの2ヶ月間ずっと病院に寝泊りしていました。
父がたまには家に帰ったら?といってもずっと付き添っていました。多分離婚したショックで倒れた自分の親が心配だったんですかね。
週一回病院に見舞いにいってましたが正直祖母よりも母のほうが心配でした。
母は病院の簡易ベッドで過ごす為に顔が凄くむくんだり体調を崩したりしていました。
母が病院で寝泊りしている間、私は父と2人で過ごしました。(兄は大学に行くために離れて暮らしていました)
母がいないので色々と大変でした。肋間神経痛になったり髪がいっぱい抜けたりしました。
そんな状況でもちゃんと朝食や夕食を作り洗濯等をしてくれた父には本当に感謝しています。父が出張の時に面倒を見てくれた親戚の人にも感謝でいっぱいです。
そんな生活にも終わりが来ました。祖母がタヒんだからです。
夜中に父に電話が来て、2人で病院にいきました。真夜中の病院って初めて見るなあなんて頭の隅で考えていました。
それからはどたばたと時間が過ぎていきました。学校側から一週間も忌引きを貰ってそんなに貰えるのかとびっくりしました。(友人にも1週間休んだので色々と心配されました)
祖母は外面はよかったので友人という人がいっぱい来ました。
ほとんど泣きませんでした。泣いたのは祖母が亡くなった時と葬式の時に母に育ててもらったお礼を言えといわれたときだけですね。だって、好きじゃない、嫌いな人がタヒんだから。
初七日とかも終わって落ち着いた頃に思ったのは「ああやっとみんな解放された。」でした。
これでまた母と暮らせると思うと嬉しかったです。
長いと怒られたので切ります。