鬼女のつぶやき〜2ch鬼女・キチママ・生活まとめ〜

主に2ちゃんねるの鬼女関連のスレッドをまとめています。修羅場、恋愛・結婚、育児関連の記事が多めです。

    毒親

    189 :名無しさん@おーぷん 2017/04/19(水) 04:05:24 ID:kF1
    今から4年前、母が弟の通う小学校に呼び出された。
    いつも私に家事押し付けて弟と外食してるから(また外食か~)って思ってたら、なんだか不機嫌そうな顔で帰って来た
    母はいつものごとく「ありがとう」の一言も言わずに私の作ったご飯を食べ始めた
    先に食べた自分の分のお皿洗ってたから今での母の愚痴の内容は少ししか聞けなかったけど
    「ちょっと給食かけただけじゃない」
    「イライラしてたら足が出ることだってある」
    「呼び出すとか大袈裟。甘えすぎ。そんなんじゃ生きていけない」
    「厳しく育てたらDⅤやいびりに慣れるやん。大切に育てたら行き遅れるわ」
    みたいな断片的に聞いた愚痴から察するに、弟がクラスの女の子に酷いことをしていたらしい

    713 :おさかなくわえた名無しさん@\(^o^)/ 2017/05/04(木) 15:00:51 ID:mbSE/Fob.net
    長文ごめん。

    昔私が小学校に上がり間も無く、母親が家を出て行った。
    それぞれ高校生中学生だった姉兄の反抗期に耐えかねたらしい。

    それから中学に上がるまでは父姉兄と同居するものの、段々と姉の
    私に対する当たりがキツくなっていった。
    姉からのDⅤに耐え兼ね、母親と一緒に住みたいと懇願。
    当時母には再婚を視野に入れた恋人がおり、彼も同居を快諾してくれたので
    中学校入学と共に3人で暮らすことになった。

    いざ生活を始めると、恋人はモラ八ラ野郎で
    母親はDⅤメンヘラ女だった。
    痣にならないようスネや背中を毆られ、「お前は自分の父親を裏切ったんだ」と毎日責められ、病んだ。
    それが日常化したある日、突然何か吹っ切れた。

    それから母親が1人でいるところを狙って徐々に反撃。
    お前なんか母親じゃない、人間のクズ、さっさと◯ね、と耳打ちし続けた。
    結果気が狂った母親は、心中しようと私に包丁を向けて病院送り。
    恋人の方は父に任せたので知らない。

    姉から受けたDⅤを、父は薄々気付いていたらしい。
    けれど平日は1人で仕事+家事育児をこなし
    休日は将来有望な兄の野球チームの手伝いに追われ、
    ノイローゼになっていた父は、私にまで手が回らなかったと
    何度も何度も謝罪してくれた。

    母親は本当に弱い人間だった。けれど一応、腹を痛めて産んでくれたことには変わりなく
    病院送りになるまで追い詰めたのはやり過ぎだったと思う。

    528 :おさかなくわえた名無しさん@\(^o^)/ 2017/04/09(日) 00:22:01 ID:bpIIPhIu.net
    わりと数年前の話し。
    かなり長くなるので端折るけど。
    少しフェイクあり。

    元々親に虐侍されてたし、愛されてないのわかっていたけど、実家が貧乏過ぎて風イ谷で働いてた。

    毎月母親に仕送り30万していた。
    実家は地方の田舎。

    元々自分を大事にするという感覚が人より薄かったし、恋人もいなかったし、いつタヒんでもいいやと思いながら、ふわふわ生きてた。

    風イ谷の求人サイトみて、応募。
    最初は五反田のホテヘル。

    初めてついたお客さんのことは今でも鮮明に覚えてる。
    風イ谷の仕事本当は嫌だったし、右も左も分からず、なんとなく仕事なめてたから当然売れず、二ヶ月で都内の別の箱ヘルに移籍。

    この頃から売れるにはどうしたら良いのだろうか?と思い悩み、とりあえず整形。
    そこそこ人気が出てきて、ある事情から吉原の高級ソープに移籍。
    それから川崎の高級ソープに移籍。
    常連客は金持ちが多かったし、優しかった。

    毎月親にはせっせと仕送り。
    父の借金の返済も終わった。

    仕送りすると電話で母親が優しかった。
    子どものころ虐侍されていたことも嘘だったのかなというぐらい優しかった。

    439 :可愛い奥様 2009/05/07(木) 17:07:47 ID:rf9BrurRO
    私はずっと実姉や実母にいじめられてた。逃げたかった
    私の結婚相手は実母が大嫌いな女の息子
    反対されたけど
    私は親から離れたい一心で無理矢理結婚した
    親に申し訳ない…という気持ちは一切おきなかった
    ザマーミロと思ってたほど
    いずれは自分の子供に同じようなことされると思う
    因果のつけは回ってくると思う

    819 :名無しさん@おーぷん 2016/08/13(土) 15:45:03 ID:bPX
    シドニー五輪(2004年)の閉会式を見ながら、当時77歳の毒父は「自分は北京オリンピック(2008年)まで生きられない、
    これが最後の夏のオリンピックだ」とさも悲しげに言った。

    これが普通の父親であれば、「そんな事はないよ」と励ますところだが、母も私も白けていた。父はいつも「もうすぐタヒぬから、
    好きにやらせて」と言って、めちゃくちゃな事をしてきた。駅のホーム・銀行・役所等で列に並ばない・順番を待てないところ
    から始まって、いろいろな社会のルールを無視した。交通事故も一年に一回は起こした。わけの分からん姉ちゃんに金を渡して、
    いかがわしい行為をしてもらっていた。孫(私の息子)の進学先・就職先にも口を出した。電話魔でいろいろな人に(普通の人の
    観点で)用もないのに「大切な事(例えば、痔持ちの自分が便秘で苦しい)」と言って電話をかけた。父は「問題行動のデパート」
    「苦情収集機」のような糞毒父だった。若い時は「女忄生問題の専門店」と呼ばれた人だった。

    父は「自分は高齢」という口実を得て、ますます言う事を聞かなくなった。多くの医者からは出禁にされ、処方箋を持たないのに
    薬局に自分の考え通りの薬を「よこせ」と言って警察を呼ばれた。少しでも具合が悪いと病院に行き入院して、自分勝手な行動で
    追い出されることを繰り返した。東京は病院が多いから父がいくら追い出されても、行ける病院が尽きなかった。
    家族である母や私が呼ばれ、「監督不行き届き」で叱られた。母や私が咎めると、父は「うるさい」「放っておいたら良い」と言う
    だけで行動を改めなかった。
    父は兄弟が多く、家が貧しかったので、父は祖父(父の父)から「いらない子」と言われて育ったらしい。祖母(父の母)が父の
    看病をしようとすると祖父が「タヒんだら良いから放っておけ」と言った事を悔しそうに私に話したことがある。祖母は早くに亡くなった。
    父は若い頃に結核になって「自分は長く生きられない」が頭にこびりついたせいか、「生きて居るうちに好きな事をする」がモットーとなり、
    周りの迷惑を考えない、とんでもなく迷惑な人間になった。
    そんな父が家で転倒し階段から落ちて入院した。やはり、入院先でも医師・看護師の言う事を聞かず、めちゃくちゃな行動があり、
    高齢もあって「認知症」の診断が出て精神病院に転院することになった。
    精神病院では、今までの病院のような医師・看護師の方々の「困ります!!!!」「何ですかあの人は?!!」的な反応がないので
    私はその点では楽だった。
    父は精神病院で、心が穏やかになる薬を処方され、怒鳴らなくなっていった。かわりに幼子の様に看護師に甘えて、かまってもらい
    たがるようになった。
    亡くなった時、父は穏やかな顔していた。「生きて居るうちに好きな事をする」。そんな人生で父は楽しかったのだろうか?ただただ、
    お母さんに優しくされ、何でも許され、かまってもらいたかったのだと思う。それは社会のどこにも無かった。無いものを探し続けて、
    周りの人を不幸にして父は2016年リオ・オリンピックの直前に亡くなった。

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